健常者エミュレート(特にその前提としての解釈作業)にあたり、動物、特に霊長類の社会行動事例を参照することは広く行われている常道です。マウンティングなどは一般社会でも通用しています。
ただし、社会ではこうした霊長類の知見は「自分を含めた我々人間はどうしようもなくサルである」「サルも人間のようなところがある」という自虐含み、"あるある"含みで、今のありようを鷹揚に捉え返す視線によっています。
一方、社会行動に馴染めない者にとってみれば、こうした知見は現状の捉え返しに留まらず、より直接的な意味を持ちます。この切迫感に加え、"あるある"を共有しない外部者であることにより、こちらの視線はどうしても冷たくなってしまいます。
こうした冷たい視線それ自体は問題無いのですが、「自分も結局ある面で同じものに縛られている」という自覚あるいは「本当に実用的に事例として参照しようとしているだけだ」という抑制が必要なのだと思います。そうでなければ「本能に縛られて冷静に判断出来ない健常者vsそれを一段上から見る自分」という問題ある優越意識に絡め取られ暴言に近づいてしまう危険を孕んでいます。
ただ、直接的にこうした意識を出していない場合には使っている語彙等から感じることになり、それは見る人が普段触れている言説空間に左右されるので、難しいところです。
自分の触れているところではこのぐらいの突き放した書き方はよく見かけるので、個人的には自分もこのぐらいなら全然暴言なんかならんやろーと思って読みました。
ただ、読み返すとうーん?となる人がいるのも少し分かった次第です。長文コメすみません…